3月12日(日)

『人間国宝桂米朝とその時代』

@兵庫県立歴史博物館

を、鑑賞しました。

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同日開催の

座談会

「米朝資料から見えてくるもの」

とても興味深かったです。

講師は

小澤紘司氏(上方落語研究家)と

古川綾子氏(国際日本文化研究センター特任助教)。

聞き手は

桂米朝さんのご子息であり、

歴史博物館学芸員の中川渉さんでした。

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座談会のエピソード全てが

興味深い話でありましたが、

 

私が特に

注目したのが

郵便局員と落語家の2足のわらじから

落語家一筋に転換したタイミングでした。

 

米朝さんが

郵便局員だったという話は

落語家ファンにとっては有名な話です。

 

でも

どこの時点で

落語家に転身したのか?は

知りませんでした。

 

ここで

3つのポイントを

挙げさせていただきます。

 

1つ目は

昭和22年5月13日付の

米團治師匠から巻紙で毛筆の手紙が届いています。

米團治師匠は代書屋をやっていたので

達筆です。

その手紙には

矢倉くん(のちに米之助になる米朝さんの盟友)が

落語の修行を頑張っているという内容が書かれていたのです。

 

2つ目は

昭和22年7月20日

第4回姫路上方噺を聞く会ポスターと寄書きです。

落語会の記念に

寄書きが書かれているのですが、

そこに

桂米之助のサインが見られます。

米朝のサインは見られず

解説として出演した本名の

中川清のサインになっているのです。

盟友は落語家になっているのに

自分は

落語家になっていない歯がゆさ

米朝さんは感じていたのでは?

と、講師の小澤さんは分析しておられました。

 

3つ目は

昭和27年4月16日

神戸新聞西播磨版掲載記事

「落語家だった公務員」です。

 

公務員の立場でありながら

落語を口演して

高い出演料をもらっているという皮肉な記事です。

顔写真も

本名の中川清も

新聞に大きく出たのです。

米朝さんも

退職の意思を決めていたのでしょう。

新聞の取材に応じていました。

退職は

同月の30日でした。

 

このように

生活費を稼ぐライスワークの郵便局をすっぱり辞めて

生きがいであるライフワークの落語家に転身した記念日となりました。

 

その後の人生は

順風満帆では無かったことは

皆さん

ご存知かと思います。

 

とても興味深い展覧会でした。

(米朝アンドロイドも1階に展示してあります。)

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古典芸能案内人
天野光(アマノヒカル)でした。
 
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